僕が「会社を辞めて起業する」と言ったら、みんなが反対した。「絶対上手く行くわけない」でも実際に会社を辞めて起業してみると・・・

「今までお世話になりました。」

4月の下旬、夜勤明けの眠たい目をこすりながら、一緒に働いた仲間全員に最後の挨拶をして回った。

「お前本気で辞める気か?」「上手く行くわけない」そういった周りからの反対を押し切って、僕は会社を辞めました。

妻のお腹には2人目の子供がいることが分かったタイミングでした・・・。

dsc5761 はじめまして、セールスライターのアキヤマです。

はじめてお会いするあなたに、ちょっとだけ僕の事を知ってもらいたくて、簡単なストーリーを書いてみました。
興味のない方は完全にスルーしてもらっても結構ですが、軽く目を通してもらって、僕という人間を少し知って貰えればと思っています。

※簡単とは言いつつも、結構長くなってしまっているので、時間のある人だけお読み下さい。読み終わった後に「時間をムダにした」と思われても自己責任でお願いします(笑)

小学生編

僕は子供の頃からワンパク坊主で、いつも悪さをしては、先生や親を困らせていました。いつもクラスの中心にいて、先頭をきって悪さしてたので、いつしかボス的な存在になっていました。

常に取り巻きがいて、楽しかったんですが、困ることもありました。

僕は何もやっていない、全く関係ない事件(悪さ)に関しても、真っ先に僕が疑われ、「お前の指示でやらしたんやろ?」と常に疑われる存在でした。まぁ、日頃の行いが悪いのが原因なんですけどね。

「お前がやらへんだら誰もやらへん!お前が辞めたら、みんな辞める!お前がマジメになったら皆もマジメになるんや!」と、よく分からない、理不尽な理由で怒られることもしばしば。

当時を思えば、本当にたちの悪い『クソガキ』だったと思います。先生の揚げ足を取ってはツッコミ、屁理屈を並べ立てて反論し、よく女の先生を泣かせていた記憶があります。(ホント、最悪ですね)

そんな僕は小学2年生からずっと野球一筋でやって来ていました。運動神経には自信があり、何をやらせてもクラスで1番で、マラソン大会は常に1位。運動会もリレーのアンカーを任されるなど、僕の独壇場でした。

クラスの人気者で、運動神経も良くて、当時はモテモテでしたよ(笑)子供の頃は足が早いだけでモテますからね。

そんな僕が中学生になった時、転機が訪れます。

中学生編

中学校へ進学し、当然のように僕は野球部に入部しました。

野球部の顧問が、小学生の頃から僕をスカウトに来ていて、親父に「中学に進学したら、ぜひ野球部に入れて下さい」とお願いされていたらしいです。ちなみに、この顧問は全国大会へ何度も導いた事がある名監督です。メッチャ厳しい人でしたけどね。

入部した頃は、先輩たちの体の大きさや、技術に驚きましたが、2〜3ヶ月もすれば、遜色ないぐらいのプレーが出来るようになっていました。

「やっぱ俺は才能があるな」と驕り高ぶっていて、本気で「将来はプロ野球選手になろう」、と思っていた、そんなある日、突然左の膝に激痛が走りました。

初めは我慢して練習していたんですが、痛くて全然思うようなプレーが出来ず、仕方なく病院で診てもらうことに。

原因は何の事はない『ただの成長痛』オスグッド病と診断されました。成長期にスポーツをし過ぎると発症し、多くの人が経験する痛みです。

でも、なった人は分かると思いますが、相当痛いですよね?まともに走れたもんじゃありません。1試合ぐらいなら、アドレナリンで何とかなるかもしれませんが、日々の練習で常に痛いと、練習どころではありません。

初めはサポーターをして無理やり練習していましたが、痛みが強くなっていく一方だったので、医者に「しばらく安静にしてろ」とドクターストップをかけられてしまいました。

今までトップで走っていたのに、突然、野球を取り上げられ、グラウンドの草むしりやボール拾いをさせられるハメに。

はじめは堪えていましたが、しだいに楽しそうに練習している仲間の姿が疎ましくなってきて、自分よりも下手な奴らにレギュラーを奪われるのが辛くて、悔しくて・・・、プライドが高かった僕は堪えきれずに、練習に顔を出さなくなりました。

帰宅部の出来上がりです。後は目標を無くした男の、お決まりの流れで、不良の道へ進んでいきました。

学校から徒歩5分の所に僕の家があったので、学校帰りは僕の家に溜まり、タバコや喧嘩の日々に明け暮れ、学校へはまともに行かず、行った日は必ず遅刻。夜な夜な出歩いては、盗んだバイクで走り回っていました。(尾崎かよw)

中2の3学期には、担任から「出席日数が少ないから、もう1年2年生やるか?」と聞かれて、初めて中学校でも留年ってもんがあるんだということを知りました。

中学3年生の初夏、新しく仲間に入れた後輩がヘマをして、みんなで仲良く警察に捕まりました。

何とか鑑別所送りは免れましたが、中学最後の夏休みは、ほとんど警察署で事情聴取されという、何とも楽しい夏を過ごしました。あっ!ちなみにカツ丼は出てきませんよ。弁当持参でした。

この事件をキッカケに「もう母親の涙は見たくない」と思い、少しだけマジメに生きていこうと決めました。

高校受験

さて、そろそろ世間は高校受験の時期です。周りは志望校を決めて行く中で、僕は「高校は行かない。何でわざわざ嫌いな勉強をしに行く必要がるの?」と言い張って、受験せず就職しようと思っていました。

仲間からは「一緒に行こうぜ?」「絶対楽しいって」と誘われていましたが、頑なに拒否し続けていました。

父親は凄く理解のある人で、「お前が決めたことなら否定はしない」と、知り合いに掛け合って、雇ってくれる所を見つけてきてくれました。もう就職先も決まったし、後は楽なもんです。周りは受験勉強だので忙しそうでしたが、僕は気楽なもんです。ずっとゲームしたりして遊び呆けてました。

就職先は住み込みだったので、街からは離れる必要があり、仲間と離れて遊べなくなるのは少しさみしい気持ちでしたが、一生会えない訳でもないので、そこまで気にしませんでした。

親友はメッチャ悲しんでいて、その親友の母親から、「高校行かへんの?あの子寂しがっとる」と説得されたこともあります。親まで巻き込んで説得させようとは・・・どんだけ俺のこと好きなんだよ。

それでも僕の心は変わらず、いよいよ高校受験の締切が迫ってきました。

それまでほとんど、この件に関して何も言ってこなかった母親が「受験するだけしてみぃひん?」「今後の人生、中卒やと何かと苦労するで?」「今は楽しいかもしれんけど、将来後悔する日が来るよ?」と涙ながらに説得してきました。

将来の事を考えてくれていたのと、まだ僕と離れるのが寂しいのもあったんだと思います。

「わかった。受けるだけ受けるわ。んで落ちても文句言うなよ?」

『母親の涙は見たくない』と心に決めていたので、泣きながら説得されてしまうと、断るわけにはいきません。とりあえず受験だけはすることにしました。

と言っても受かる気は全くありません。受験勉強なんてもってのほかです。エントリーはしましたが、勉強は一切しませんでした。

親友の母親は教師ということもあり、手作りの勉強ドリルのようなモノを作って渡してくれたりして、どうにか僕を合格させようと必死になってくれていました。まぁ一切やりませんでしたけどね。

さて、受験当日です。

先日からインフルエンザで寝込んでいる状態の僕は、受験会場とは別に保健室に通されました。インフルエンザにかかっている人専用の受験会場です。

僕が受験した高校は、地元でも有名な不良高校で、偏差値の低い公立高校です。僕の家から自転車で15分ほどの距離だったことと、この高校以外受かる可能性がないということで、この高校に自動的にエントリーさせられていました。

もちろん僕は受かる気がないので、テストには名前だけ書いて白紙で出してやりました。「受験はする」という約束は果たしたので文句ないだろ?と。

筆記試験の後、面接もされましたが、インフルエンザで頭がボーっとしてたので、テキトーに受け答えして終わりました。

「これで終わり。約束は果たしたから、もう文句はないだろ?」という気持ちで家路に付きました。

合格発表

僕は愕然としました・・・。

ほぼ白紙で出したはずなのに、ナゼか僕の手には合格通知が。

元々、偏差値の低い、僕みたいなヤツが集まる高校だった上に、その年、僕が受験した科が定員割れしていて、受ければ合格する状況だったみたいです。(笑)

定員割れしてるなんて聞いてないし・・・。騙された・・・。

でも受かったもんは仕方がない。これも神の思し召しか?と思って、高校に行くことに決めました。

高校編

いよいよ僕も高校生です。望んで入った訳ではないにしろ「どうせ行くなら楽しもう」と思っていました。

結論から言うと、あの時、泣きながら説得してくれた母親に感謝しています。

僕のような輩が多く集まる高校だったので、タバコあり、喧嘩あり、バイクありと、本当に楽しかったんですよね。さらに、僕の幼馴染とも言える2つ上の先輩が、その高校で留年していて、2年間もお世話になることが出来て、本当に助かりました。

入学した途端に、3年生(ダブって2年)でヤンチャやってる先輩に可愛がって貰えたので、無益な喧嘩に巻き込まれたり、理不尽にシバカれることもなく、本当に楽しい高校生活を送ることが出来ました。

バイクで事故って死にかけたり、ツレがバイト先からパクってきたチキンでクリスマスパーティーやったり、夜な夜な警察に追い掛け回されたりと、本当に中身の濃い3年間でした。

ちなみに、嫁ともその高校で出会いました。例の先輩の友達の妹という何とも複雑な気分でしたが──嫁に出会う前にその兄貴と友達でした──それもこれも高校に行ったから。あの時、オカンが説得してくれたからです。

何とか卒業までこぎ着け──あと1回でも問題を起こせば強制退学になるところでした──無事に3年間の高校生活にピリオドを打ちました。

忙しい両親に、「卒業式は見に来て欲しい」と頼んで、見に来てもらいました。本当に楽しかった3年間を送れたのは両親のおかげなので、最後までやり通した自分の姿を見てほしかったんだと思います。

就職活動

特に夢もなく、目標もなく(ビックになってやる!とは常に言っていました)ただ毎日を過ごしていた僕としては、自然の流れで就職することに。

僕が行っていた高校は、就職率が90%を余裕で超えていて、大学に行く人間が珍しいぐらいの高校で、3年生の夏頃にはみんな就職活動をはじめます。

学校へ企業から求人票が届き、生徒はそれを見て、どこを受けに行くか決めます。

でもそれにはルールがあって、『成績が良かった者(マジメなやつ)から順番に、来ている求人を選べる』というモノです。マジメに3年間頑張ってきたヤツが報われるのは当然です。

つまり、僕のような底辺の人間は、みんなが取っていった求人の残りカスみないなものから選ぶしかありません。どんな会社が良いのかわからないし、何がやりたというわけでも無かったので、とりあえず親父を呼んで、一緒に求人票を見てもらいました。

すると、ちょっとした奇跡が!

「何でこんな良い会社が残ってるの?」ってぐらいの求人がありました。給料は平均的でしたが、ボーナスはスゴイ!他の求人票にはボーナス無しやら、寸志程度しか書いてないのに、高額な賞与が書いてありました。

「何でこんなのが残ってんの?」と聞くと、どうやらその会社が求人票を送ってくるのが遅かったらしく、最終組の僕が探し始める直前に届いたそうです。もう既にマジメ組は内定を貰っていたり、エントリーしているので、その会社の存在に気づいていなかったみたい。

ほぼ即決で、その会社を受けることにしました(ボーナスのことしか頭に無かった(笑))。求人要項には「部活をやっている人」と書いてあったけど、「関係ないだろ」と、思って無視しました。

先生に「この会社を受けたいので、手配してくれ」と頼むと──大学生とは違い、企業との連絡は全て学校が代わりにやってくれます──「その会社は今まで、代々野球部のキャプテンしか採ってない。去年受けたやつは、野球部だったけど落とされた」「だからたぶんお前じゃ厳しいぞ?」と率直な意見をいただきました。

「まぁダメ元で良いなら手配してやる」と言われ、とりあえず受けてみることにしました。

いざ、面接当日。

僕の他に、別の高校からも1人受けに来ていました。早速筆記テストが行われ、最低限の学が有るかを試されます。続いて面接です。一人ずつ部屋に呼ばれ、お偉方3人の前に座らせれました。緊張しましたが、のらりくらりと質問に答えました。

途中、自分のことを「俺」と言ってしまったりしましたが、無事乗り切る事が出来ました。

「漢字が苦手みたいやね?」と書かされた作文を読みながら突っ込まれる事もありましたが、「書くのが苦手なだけで読むのは得意です」と何とか乗り切りフィニッシュ。

全てを終えてホッとしていると、面接官の1人に呼ばれて、「心配せんでええよ。印象良かったから」と言ってくれたので、小さくガッツポーズをしました。

もうボーナス確定ですよね?まだ落とすかも分からないガキに、「心配するな」とは言わないでしょ?もう合格させることは決まってるんでしょ?そう思いました。

待てど暮せど、連絡が来ない・・・。

面接を受けて1ヶ月ほどが経ちましたが、連絡が来なくて徐々に不安になり始めました。

内定が貰える自信はありましたが、答えを待っている時間はとてもツラくて長く感じるものです。結果が分からない間は次の企業へ面接に行くことが出来ないシステムなので、焦りも出てきます。

そもそもが他の人間よりも後からスタートしているので、遅れれば遅れるほど、厳しくなっていきます。

でも親は「合格してるから遅いんちゃうか?不合格の人間をいつまでも引っ張るような可哀想なマネはせんやろ?」という大人の意見。

確かに。不合格なら次を探さないとイケないから、直ぐに言ってくるはずです。「合格しているからこそ、向こうも余裕ぶっこいて連絡してこないんだな?」と思い込もうと努力しました。

でもやっぱり確証が欲しい!モヤモヤした気持ちでは学校生活が楽しめません。何度か先生に頼んで、問い合わせて貰ったら、しばらくして内定通知書が届きました。

これで自由の身です。後は問題を起こさなければ、卒業できるし就職できます。それからは細心の注意を払って、悪さして面白おかしく高校生活を謳歌しました。

※入社してから聞かされたことですが、筆記テストでは完全に不合格だったらしいです。でも僕が書いた作文に事業部長が心を打たれたのと、面接での印象が良かったので採用されたらしいです。

社会人編

いよいよ僕も社会人です。その会社で骨を埋める気はサラサラありませんでしたが、夢や目標も特に無かったので、とりあえず初めはガムシャラに仕事しました。

同期としては、高卒が僕の他に1人、あと同じ職場になった大卒5人の計7名が同じ職場で働き始めました。同期自体は20人ぐらいい居たと思います。ちょうど僕が入社した年の大卒は、将来の幹部候補生として、会社が選りすぐった人材だと聞きました。

当時の会社は、僕が入社する1年ほど前から、忙しさのピークだったようで、3ヶ月間の試雇期間を終えるとスグに、残業地獄が始まりました。

僕の職場は、最終チェック及び出荷を担当する部署で、工場内で一番忙しくてハードな部署だと言われました。配属が決まってスグに、直属の上司から「かわいそうに・・・。帰れへんぞ。」と言われた記憶があります。

まさにその言葉通りでした。ずっと立ちっぱなしの歩きっぱなしで、力仕事の完璧な肉体労働の職場なうえに、座れるのは昼休みの45分と残業前の10分だけという状況で、スタンダードで残業4時間です。

月末に近づくにつれて、残業時間が延びて行き、ホント月末最終日には午前様は当たり前な状態でした。朝7時55分からラジオ体操が始まり、8時から仕事開始です。早く帰れても夜の9時ですから、なかなかのシンドさです。

定時で帰る人間は、犯罪者を見るような目で見られて、新人の僕なんかはとてもじゃないけど、帰れる状況ではありませんでした。もちろん使えない人間はスグに帰らされますけどね。

毎週土曜日は休日出勤させられて(使える精鋭部隊だけ)、本当に毎日ヘトヘトになっていました。

でも、会社としてはしっかりした会社なので、残業代はちゃんと付くし、休日出勤手当ても付くので、給料的には周りの友達よりは少し多かったかもしれません。

楽しみは年2回のボーナスです(これが目当てで入社した)。入社したての研修中に、先輩から「仕事内容はキツイけど、ボーナスはスゴイから辞められへん」と言う話を聞いて期待させられました。

具体的な数字は組合の規定で言えませんけど、入社1年目のぺーぺーが『ちょっとキレイな中古の軽自動車なら一括で買える』ぐらい貰えていました。

まだ20歳になっていないので、引かれる税金も少なく、毎月の給料も残業代でなかなかな金額を貰えていたので、お金が貯まっていきました。

毎月の出費としては、実家ぐらしで、生活費として3万円を親に渡していたのと、ガソリン代(交通費として会社が出してくれていた)と携帯代、車のローン、タバコ代と日曜に気晴らしで行くスロット代ぐらいでした。

スロットはもうやってませんが、当時は収支トントンぐらいだったので、ほぼ出費してないです。

つまり、月に必要な出費は6万円ぐらいで、あとは毎日10〜11時に帰ってきて、疲れ果てて眠るだけの生活だったし、田舎だから金使うところもないし、休みは彼女の家に行ってダラダラ過ごすだけ(体を休めたいので遊びにも行かない)なので、全然お金を使うことがありませんでした。

収入はボチボチだけど、使う時間が無くて1年で200万円貯まりました。別に貯めようと努力したわけではありませんが、仕事漬けの毎日だといつの間にかそんな金額が貯まっています。

まぁその金も中古の高級車買うのに一括で使ってやりましたけどね。

そんな忙しい状況が3〜4年弱続きました。その間も、僕と彼女は愛を育み続けていて、「そろそろ結婚かな?」と思っていた矢先にとんでもない事が起きました。

リーマン・ショック

会社のメインが自動車関連だったので、リーマンショックの影響がモロに来ました。

それまで週休1日で、毎日4〜5時間残業していたのに、いきなり週休4日になりました。金、土、日、月と毎週4連休です。仕事に行っても最低限の作業しか無く、掃除がメインになるほどでした。

もちろん残業なんてありませんから、毎日定時で帰れるし、暇な会社に3日行けば4連休です。

それまで働き詰めだった僕は、色めき立ちました!「なんて夢のような世界なんだ?」と本気で思いました。昼頃に起きてきて、夜中までゲームしたり、映画を見たりして遊び呆けました。それまでの4年間の時間を取り戻すように。

でもリーマン・ショック後はじめての給料明細を見て、愕然としました。一気に現実を突きつけられたんです。

当時、手取り額の半分近くが残業代という状況で、入社3年ほどでは基本給が少なく、残業代で保ってる状態でした。国の補助を受けて、週休4日でも基本給だけは貰えていたんですが、税金は昨年の収入を基本に徴収されますから、少ない基本給から高い税金を引かれて、手取り額がスゴイことになっていたんです。

今まで手取りで20万円を切ったことが無かったのに、次の月には10万円を切っていました・・・。

「えっ!?これでどーやって生活するの?結婚どころじゃねぇな・・・」

彼女にそんな状況を説明して、「仕事が回復するまで待って欲しい」とお願いしました。

入社3〜4年で一番ピークの忙しさと、最下部を両方経験できたのは、後の人生でも貴重な財産になると思います。事実、このリーマン・ショックを期に僕の考え方が少し変わってきました。

「会社の給料だけを当てにしていては危険だ」と思い始めたんです。

これまで当たり前と思って貰っていた給料が、いきなり半分以下になる現実。職場内でも家のローンを組み換えしてる人も多くいました。あの給料を見越してローンを組んでるのに、いきなり半額以下に下がったら、当然ローンも払えなくなりますよね。

当時、仲の良い先輩に給料の話を聞いたら衝撃を受けました。

その先輩は20年働いていたんですが、リーマン・ショック時の給料は20万円を余裕で切っていたそうです。結婚もしていないし、実家ぐらしで、ギャンブルもしない人だったので、何とか生活は出来たみたいですが・・・。

ヤバイですよね?20年選手ってことは40歳前です。もし結婚していて子供も居たら中学生か高校生ぐらいになってる年齢ですよ?それで給料20万いかないのは正直キツイと思います。

そんな事を考えてると「あぁこのままじゃヤバイ」と思ってきました。

人生で最大の後悔?

『1つの会社に依存する人生は、リスクが高い』という気づきをくれたリーマン・ショックでしたが、当時の僕は本当にどうしようもない大馬鹿野郎で、せっかくのこのチャンスを遊んで過ごしてしまったんです。

今思えば、最大の後悔かもしれません。基本僕は後悔はしないタイプですが、あれは本当に悔やみました。

だって、まだ結婚もして無くて、週に4日も休みがあって、少ないけど給料は貰えている状況で、何も勉強せずに遊び呆けていたんですよ?
タイムマシーンがあるなら、戻って説教していやりたいですよ。

そんな状態がほぼ1年続いたんです・・・。1年あれば相当勉強できたはずだから、もっと前に会社を辞めて、起業できていたはずなんですよ。

まぁこれは今だから思うことであって、当時の僕は忙しい日々から開放されて、好きなことして生きていれたので、満足していたんでしょうね。。。

結婚

リーマン・ショックから約1年。徐々に仕事量も回復していき、ピーク時の7割ぐらいまで回復しました。以前に比べれば給料は減りましたが、生活するぐらいは貰えるようになったので、ついにプロポーズしました。

リーマン・ショックの1年で貯金をだいぶ食いつぶしていたので、蓄えはそんなにありませんでしたが、女性の憧れでもある結婚式は絶対に挙げてやりたいと思っていました。

初めは親族だけで良いから、小じんまりした式場で、安く抑えようと思っていたんですが、2軒目に見に行った式場に嫁が一目惚れ。今までおねだりしたことがない嫁が、初めて「ここで挙げたい」と頼んできました。

女性が一目惚れするぐらいの式場ですから、お値段もそれなりです(苦笑)

「とりあえず話だけでも」ということで、プランや値段の話を聞くことに。

すると、『契約から3ヶ月以内の挙式で半額になる』というプランが用意されていました(たぶん、当時でも多くなってきていた「できちゃった結婚」する人用のプランだと思います)。

ドレスなんかも指定された中からしか選べない、という縛りはありましたが、それ以外は通常のプランと出来ることは同じで、値段が半額ってのは魅力的でした。

式場で流すプロフィールビデオやエンドロール、席次表など自分たちで作れるものは、出来るだけ自分たちで作るようにして、限界まで値段を下げることで、嫁の望む式場で結婚式を挙げることができました。

3ヶ月で全ての用意をするのは、ハッキリ言ってメッチャしんどかったです。もう2度としたくないと思いました。招待される側も、2ヶ月後とかっていう急なことなので、迷惑掛けたかもしれませんね。

僕が働いていた会社では、結婚すると5日間の公休が貰えるので、それを利用して新婚旅行なんかに行きます。

僕たちは、ゴールデンウィークに合わせて公休をとり、計2週間の休みを貰いました。

結婚式の準備で忙しすぎて、新婚旅行の計画を立てている時間も無かったので、適当に沖縄でも行くか?ぐらいの軽い気持ちでいました。

いざ式が終わり、飛行機のチケットを取ろうと思ったら、世間はGWで飛行機が取れず、沖縄行きは諦めました。

結局、車で四国まで行って、うどん食って日帰りするという、何とも『僕たちらしい』新婚旅行となりました。

残りの2週間は家具を見に行ったり、お返しを探しに行ったり、まったり2人だけの生活を満喫しました。

お返しがスゴイことに・・・

ちょっとだけ自慢させて下さい。

僕は会社内でも人望が熱く、同じ部署の人以外にも、多くの人にお祝いを貰っていました。

休みが終わって、お返しを配るために車に載せようとしたんですが、軽自動車にパンパンに詰めても入り切らないぐらいの量になっていました。

一人ひとりにお礼を言いながら返していくのは結構大変な作業でしたよ。。。

これは結婚したやつには祝儀を渡すという、暗黙のルールがあるわけではなく、僕の後に結婚した人は、そんなに貰っていませんでしたし、「直属の上司からも貰えなかった」とボヤいていましたからね。

これは僕の人望だということですね。はい。嫌な奴になっているので、自慢話は終わります。

人生を見つめ直す編

夫婦生活も円満で、仕事では工場を仕切っている部長に気に入られ、周りからは「出世コースに乗った」と言われるようになっていました。

ガンコな上司も僕の意見には耳を傾けるようになり、周りからも一目置かれる存在になって行きました。

でもちょうどその頃、僕は自分の人生に疑問を感じるようになっていました。

「このまま会社で働き続ければ、出世はできるだろうし、子供が出来て幸せな家庭を築けるだろう。でも俺の人生それで終わりか?やりたくてやってる仕事じゃないのに、このままジジイになるまで続けるのか?」そんな風に思うようになりました。

たぶん会社員なら1度は考えることでしょう?「このままで良いのか?」って。

結婚して初めての新年を迎えた元日。「今年はやりたい事を見つけよう」と誓いを立てて、初詣の帰りに早速、本を買うことにしました。

今まで何となく憧れを持っていたプログラミングを勉強してみようと、『初めてのC言語』みたいな本を買って勉強を始めました。今まで23年間、本屋に行って本を買ったことすら無かった男がです。

貪るように読みました。そして書いてみました。意外とすんなり頭に入ってきて理解できました。

すると、今まで自分はバカだと思い込んでいて、勉強というモノから逃げ続けて生きてきたけど、「実は俺、頭良いんじゃないの?」と勘違いしだします。

でもこの勘違いは凄く良いことなんです。

勉強すればする程、自分が賢くなっていくのが手に取るように分かって、見てる世界が変わってくるんです。自分は頭が良いと勘違いすることで、「もっと知りたい」「もっと成長したい」と思うようになります。

恐らく今まで、何も詰めてこなかった頭だから、新しい知識が入るスペースが空きまくってたんでしょうね。

プログラミングから始まり、Web制作、自己啓発とどんどん本を読み漁るようになっていきました。

Web関係の勉強の一環で、ブログやHPを立ち上げ、そこで、アフィリエイトなどのインターネットビジネスという世界を知りました。

1冊の本に出会い決心する

1冊の本との出会いが、その後の人生を大きく左右する事があります。まさに僕もそうでした。メッチャ有りがちなパターンですが、自己啓発本を呼んで、触発されたんです。

何を読んだのか、何が書いてあったのかは覚えていませんが、とにかく『会社を辞めて起業する』と決意します。

今の会社で働き続けても「楽しい未来はない」と確信して、それなら自分で好きなことを仕事にして、楽しく生きていきたいと思うようになりました。

そんな時、嫁の一言にとんでもない衝撃を受け、さらに独立したいという気持ちが高まります。

あれは結婚して1年後のGWだったと思います。長期連休も中盤に差し掛かった頃、僕はポロッと「あぁ仕事行きたくないなぁ」と心からの本音を呟きました。すると嫁は「そう?私は早く行きたいけどなぁ」と言ったんです。

この一言に、僕はとてつもなく衝撃を受けました。

僕の世界では、『仕事というのは、生活するために仕方がなくやってることで、出来るなら働きたくない』と思っていることが常識だったからです。そして誰もがそう思っているんだと思っていました。だから長期連休が終わる前は憂鬱になるんだと。

でも、嫁は『早く行きたい』と言ったんですよ!

嫁は子供の頃から保育士になることを夢見てきて、やっとその夢を叶えて、自分の好きな仕事をやれている人でした。

「なるほどなぁ。仕事が楽しいと、休みが恋しいってことも無いのか。」と感心させられ、僕も「休みなんていらねぇ。早く仕事がしたい」と思える仕事をしようと心に決めたんです。

アフィリエイトを始める

「独立する」と心に決めたのは良いですが、肝心の「何がしたいのか?」が決められずにいました。

とにかく自分が楽しいと思える仕事を見つけようと、色々と手を出して味見をしていきました。『Webデザイン、カメラ、アプリ制作、グラフィックデザイン』などなど、興味のあるものは片っ端から手を出していきました。

その中でもやっていて一番楽しかったのが、Webデザインです。自分一人でブログやサイトを作り上げていくのは本当に楽しくて、それなりのモノも作れるようになってきていました。

「よし!HP制作会社をやろう」

そう考えるようになり、さらに勉強し技術を磨いていきました。

何の根拠もない自信ですが、「やれるんじゃないか?そろそろ会社辞めようかな?」と思っている頃に、嫁のお腹に子供が出来ていることが発覚します。

とりあえずそこで、会社を辞めることは踏みとどまりました。「これから親になるのに、無責任に会社を辞めて路頭に迷わすわけにはいかない」と思ったからです。

今思えば、あれは神様が止めてくれたのかもしれません。あの時会社を辞めていたら、今の僕は無いはずです。本当に無知な状態でノリだけで「イケる」と判断していましたからね(汗)

でも子供が出来たからといって、野望を捨てるほど僕はお人好しではありません。一度思い立ったことはやらないと気がすまない性分なので、「何か確実なモノを手に入れてから辞めよう」と決めます。

その頃、練習としてブログやHPをたくさん作っていたので、「これらを使ってアフィリエイトをしよう」と思い立ちました。「アフィリエイトで成功すれば、会社を辞めてもお金には困らないし、事業が失敗しても食いっぱぐれる事はない」ので、まさに理想的だと。

現実はそんなに甘くない

とにかくアフィリエイトを始めようと、ASPにいくつか登録し、気に入った商品のリンクをブログやHPに貼り付けていきました。アフィリエイトについては右も左もわからない状態だったので、「とりあえずリンク貼っておけば稼げるんだろう?」
ぐらいの甘い考えでいました。

当然、全く売れません。

当時はアフィリエイトはビジネスだという感覚がなく、お金を稼ぐ裏技的なものぐらいの認識で、やれば成功すると思っていました。

でも現実はそんなに甘くないですよね?そもそもHPにアクセスが無いのに売れるわけありません。当時はSEOやアクセス解析という概念すら知らず、HPを作れば勝手に誰かが見に来てくれて、買ってくれると思っていたんです。

「何で売れへんねん?」と当たり前のことを真剣に悩み、「独学だけでは無理だ」という結論に至りました。

それからはアフィリエイトについてインターネットで情報を読み漁りました。SEOのことや、アクセス解析の重要性、商品選びの基本や、サイトの構成、別サイトからのリンクや、ブログランキングの登録など、全く知らなかった世界がそこには広がっていました。

1つずつ実践していき、毎日毎日仕事から帰っては、夜中まで作業しました。

それでも全く売れませんでした。

心が折れかかっている時に、『情報商材』という物の存在に気が付きます。

それまではアフィリエイターのブログを読んだりして情報を探していたんですが、無料の情報では肝心な部分が分からない事が多くありました。

そんな肝心要な部分が書かれている情報を、お金を払えば買えるということを知りました。

怖くて買えなかった

情報商材と言うモノの存在を知ったんですが、決して安くない値段です。
「騙されるんじゃないか?」「買っても稼げないんじゃないか?」とメッチャ不安でいつまで経っても買えずにいました。

今思えば、何をビビっていたのか分かりませんが、当時はそうとう怖かったんですよね。ダウンロードするPDFに数万円って異常に高く感じていました。

もしかしたら今のあなたもそうかもしれませんね?その気持はメチャクチャ良くわかります。でも信頼出来る人から買えば騙されることはありませんし、基本的に返金保証も付いているので、成果が出なければお金は返ってきます。

「怖くて買えない」って思っているなら、モッタイナイですよ?ビックリするぐらいの大金じゃないなら、買っても損はないと思います。

その情報を知らずにムダな時間を掛ける方がよっぽど損しています。良い情報はものすごく時間対効果が高いので、ムダな時間を省けて、一気に成長させてくれますよ。

でも、いつまで経っても成果が出ず、ついに初めて情報商材を買ってみることにしました。

今までがウソのように

金額は19,800円でした。情報商材としては高い方ではありませんが、決済する時に指が震えていたのを今でも覚えています。

決済が済むと、スグにPDFが送られてきました。その中身を見てみると・・・。

今まで僕が実践していた方法とは全然違っていて、一瞬で「これは稼げそうだ」と思いました。
30〜40ページぐらいのPDFだったと思いますが、一気に読み切って、早速実践を開始しました。

すると、3日もしないうちに人生初報酬が発生してしまいました。それまで半年ほど全く売れなかったのにです。

情報商材の破壊力を実感して、「お金を払えば価値ある情報は買えるんだ」という事を知りました。

それからしばらくして、子供が産まれ、里帰りを終えた嫁が帰ってきました。

当時はアパートに住んでいたんですが、ちょうど母親の実家が2世帯住宅になっていて、跡継ぎもおらず、部屋が余っているということで、家族3人で転がり込みました。

引っ越しに際して、家をリフォームしたり(自力で)、初めての子育てに、会社での仕事も忙しく、せっかく成果が出だしたアフィリエイトでしたが、作業する時間が無くなっていきました。

その後1年ほどはアフィリエイトから遠ざかり、ただ起業を夢見て本を読んだり、パソコン触ったりという生活になっていきました。

稼げるようになっていたアフィリエイトでしたが、毎日相当な量の作業をしないとイケない手法だったので、徐々に作業が億劫になり、終いに作業をしなくてってしまったんです。

そうです。逃げたんです。

コピーライティングに出会う

それから特にアフィリエイトをするわけでもなく、どうやればお金を稼げるのかを考えている時に、たまたま『コピーライティング(セールスライティング)』というモノを知りました。

コピーライティングは、簡単に言うと「モノを売るための文章術」のようなものです。

コピーライターという職業を聞いた時に「ピンッ!」と来ました。「この技術を身に着ければ、どんなものでも売れるんじゃないか?ってことは、お金に困ることはなくなる」と確信しました。

それから、コピーライティングの勉強を始め、それに付随して、マーケティングの事も勉強するようになりました。

コピーライティングはこれからもっと重要になってくる技術ですし、何か商品を売りたいと思ったら、必ず必要になるので、これさえ身に着ければ、どんな事業だって成功させられるし、人の商品でも、コピーライターとしてレターを書いてあげることも出来ると思いました。

その頃、コピーの勉強を続けながらも、「会社を辞めて独立したい」と思ってる仲間を見つけて、色々とビジネスアイデアを出し合ったり、実際に地元情報Webマガジンを作ったこともありました。

そうして、また1年ほどが過ぎ、いよいよ学んだ知識を使って実践する時が来ました。

美容室をメインに集客代行を始めた

学んだマーケティングとコピーライティングを実践で使うために(自分の実力を確かめるため)、地元の美容室をターゲットに「集客代行」のビジネスをやってみることにしました。

まずは自分のお客さんを作るために、美容室へ送るDM(セールスレター)を書き上げました。人生初のセールスレターです。

20件の美容室へ送って、1件の反応が返ってきました。その1件がクライアントになってくれて、僕の処女作であるセールスレターは成約率5%という脅威の数字を叩き出しました。

まぁ1件なんでラッキーパンチの可能性もありますが、それでも初めて書いたセールスレターで成約が取れたのが嬉しくて、舞い上がってしまいました。

DRMの世界ではフロントエンドで成約率5%は相当な数字です。大成功と言っても過言ではない数字です。

クライアントさんにも成果が出た

クライアントになってくれた美容室で集客をするために、ある仕掛けを施したDMを作り、ある手法を実践したところ、1万3千円の投資で、9万円弱のリターンを実現しました。

期間は1ヶ月ちょっとで、計12人の集客に成功して、本当に喜んで貰うことが出来ました。

そして僕は確信しました「食っていける」と。

マーケティングやコピーライティングには色々と手法があったり、テクニックがあったりしますが、基本は人間心理です。人の心理はそうそう変わるものではなく、事実、アメリカでは100年も前からコピーライティングというものが存在していて、未だに使われ続けています。

そしてこれからも、人間の心理はほとんど変わりません。つまり、コピーライティングを学べば、一生商品の売り方に困ることがなくなるということです。

いよいよ会社を辞めるときが

集客代行をやってから半年後、ついに会社を辞めようと決意しました。

上手く行く自信はあったし、実績も作りました。でも、なかなか踏み出せませんでした。「辞めます」の一言がこんなに重くて難しい言葉だとは思いもしませんでした。

それまで何度も「辞めたい」と言っていたくせに、いざその時になるとビビって言い出せない自分が情けなかったです。

でも本当にビビるんですよね?9年も働いた会社ですし、人間関係もすこぶる順調で、会社からも期待されている状況でしたから、言い出しにくくて、ホント悩みました。

毎朝、嫁に「今日は辞めるって言ってくるから」と言って、家を出て行く日々がしばらく続きました。

どっちにしろ辞める気なんだから、何を今更ビビってんだ?ってことなんですけど、辞めるのが怖いんじゃなくて、「辞める」って言うのが怖かったんでしょうね。

そんなある時、僕が唯一気に食わないと思っていた人物(副部長)に仕事のことで、少しイヤミを言われました。以前からムカついていた所に、イヤミを言われて、僕の中で何かが『ブチッ』と切れました。

この怒りを勇気に変えて、「言うなら今しかない!」と渾身の勇気を振り絞り、ついに「辞めます」と言うことが出来ました。

ものすごく驚かれて、上層部の方からも「本気なんか?」と説得されましたが、僕の意志は固くて、そんなもんじゃ動じません。

それまでずっと怖くて言えなかった一言を、言った途端にスッキリして、ものすごく晴れやかな気持ちになりました。

ずっと停滞していた状況が、1つの歯車が回りだすと、全てが流れるように動き出します。

3ヶ月後に辞めると伝えてからの3ヶ月は本当にあっと言う間に過ぎていきました。

特に辞めると言ってからは「起業の準備をする」という理由で、残業もほとんど断って、毎日定時で帰っていたので、子供とも遊べたし、勉強もできたし。凄く充実していました。

そして現在

会社には「マーケティングコンサルタントの会社を作ります」と言っていたんですが、実は、特に何をやろうか考えていませんでした(笑)

せっかく会社を辞めたんだし、自分で0から始められるんだから、とにかく楽しいと思える事をしようと色々模索している状態でした。マーケティングとコピーライティングの知識があれば何でも出来ると思っていたので、特に焦ることもなく、ゆっくりと考えるとこにしたんです。

正直、嫁としては不安だったと思います。3歳の娘と、お腹には赤ちゃんがいる状況で、嫁も仕事はしていなかったですしね。

とりあえず、昔からオシャレな家具が好きだったということで、「オンラインの家具屋」を始めることにしました。

自分でショッピングサイトは作れるし、ドロップシッピングを使えば在庫も必要ないので、最低限の資金で始められると思ったからです。

サイト立ち上げから1ヶ月、チラホラと売れるようになってきていました。

順調に成長し、最高で月に50万を売り上げるほどになってきた頃、急に飽きてしまいました(汗)

どうも僕は、新しいものを作るのは好きだが、維持するのが苦手なようです。同じことの繰り返しが堪えられず飽きてしまんです。

今までの人生を振り返ってみても、そういった節が見当たりました。

だったら「作るだけ作って、後は人に維持を任せればいい」という結論にいたり、そうして、今の「とりあえずやってみたいことは何でもやってみるスタイル」が出来上がりました。

この1年で僕は、家具屋、雑貨屋、HP制作、Webマガジン、マーケティングコンサル、宅配八百屋、宅配卵屋を作っています。

1つのことを極めるスタイルよりも、楽しいと思える事を色々やっていくスタイルのほうが僕の性にあっているし、こっちの人生の方が楽しいと思っているので、このままどんどん新しいことを始めていきたいと思っています。

1つの事に集中して取り組んだほうが儲かると思うんですが、僕にとって、お金よりも重要な「楽しい」と思えるかどうかで、選択していますので、たぶんこれからもそれは変わらないじゃないかな?

人生を楽しもう

僕は「人生を楽しむ」ということに関しては、自信があります。

たった1度の人生なんだし、いつ死ぬかも分かりません。それだったら楽しいことして生きて行きたいと思いませんか?

もし「明日死ぬ」と言われたら、あなたは後悔しませんか?「我が生涯に一片の悔い無し!」って言えますか?

「今の現状をどうにかしたい」と思っているのなら、まずは何か始めてみませんか?人生を変えたいと思っているのなら、行動しなくては始まりません。

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それでは長々と僕のどうでもいいストーリーを呼んでいただきましてありがとうございました。

こんな僕ですけど、今後ともよろしくお願いします。